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第1回 『 命懸け 』ということ

2016.04.25

 私には、34歳年下の師匠がいます。太田雅音(まさね)さんといいます。名前はとても優雅で女性名の様な響きですが、大変に立派な好男子です。これからお話しするのは2008年の、生涯忘れられない出来事です。

 

 太田さんは元々、飲食店の科学研究所の前身『 とんかつ寿々屋(すずや) 』のお客さんで、東京藝術大学在学中からよく来てくれていました。

 ある日、二か月ぶりの来店だった太田さんに「 やあいらっしゃい、どうしてたの?」と聞くと「 ベルリンに行っていました 」とのこと。「 何をしに? 」と聞くと「 シュヴァルベ先生のレッスンを受けてきました 」「 えェーッ?!!! あのミシェル・シュヴァルベさん?? 」「 はい、そうです 」。私は危うく、包丁を落としそうになりました。

 シュヴァルベさんは、音楽界の帝王と言われた大指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンが、1957年に三顧の礼でベルリン・フィルの『 顔 』として迎え、以後約30年間、カラヤンと共に同オーケストラの黄金時代を築き上げました。当時多くの人々が世界最高のコンサートマスターと認め、私にとっても、仰ぎ見る巨星のような存在でした。

 「 それでまたどういう経緯で呼んでもらえたの? 」と聞くと「 小泉和裕先生の奥様がシュヴァルベ先生の愛弟子で、僕がどうしてもシュヴァルベ先生にお会いしてレッスンを受けたいと懇願すると、先生の快諾を取ってくださった上、ベルリンの、先生のご自宅まで連れて行ってくださったんです 」。「 一緒にベルリンまで~?‼ 」。全く、人の心を動かす方も動かす方なら、動く方も動く方、何をか言わんやというものです。

 

 「 それで何の曲を教わってきたの? 」と私。「 ≪ シェエラザード ≫ と≪ 英雄の生涯 ≫が希望だったので、その二曲の楽譜を持って行きました 」と太田さん。
シュヴァルベさんは数々の名演奏を残していますが、中でもこの二曲の中のソロは、魂が震えるほどの珠玉の演奏なのです。カラヤン指揮ベルリン・フィルとのコンビの中で、どちらも究極の名演と謳われています( ≪ シェエラザード ≫は一度だけの録音ですが≪  英雄の生涯 ≫は三度録音していて、特に1974年盤が最高です )。

 「 シュヴァルベさんは一体、レッスンでどんなことを太田さんに教えてくれたの? 」。私は興味津々でした。

 「 僕のヴァイオリンを聴いていただいている時、日本という国と文化をとても愛していらっしゃるシュヴァルベ先生が『 ヴァイオリニストは侍だ ! 』とおっしゃったんです。僕がポカンとしていると『 侍は、一瞬でも気を抜いたら命を落とす。ヴァイオリニストも同じだ。一瞬たりとも一音たりとも意識の抜ける瞬間があってはいけない。命懸けなんだ ‼ 。 君は命懸けで弾いているかね? 』と続きました。
 僕が、先生は何故こんな話をなさるのかナと思っていると、『 私は知っての通りユダヤ人なので、戦争中はナチス・ドイツによって、強制収容所へ入れられていた。家族も、トレブリンカ絶滅収容所で殺された、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、。
 ある日そこのドイツ軍高級将校に呼ばれ、君のヴァイオリンを聴かせてくれ、と言われた。
様々な想いが頭の中を交錯したが、私は、ああ、これが人生最後の演奏になるのだ。と、そう思うと、意を決して渾身の演奏をした。

 弾き終ると、じっと聴き入っていたその将校が、君を殺す訳にはゆかない。ここから出してやる。
と言って逃がしてくれた。
そこからはヴァイオリンを抱えながら、夜の闇に紛れてひたすらスイスを目指した。明るくなる頃には納屋などに身を潜め、夜になるとまた走り、やっとの思いで国境を越えた。

 あの時もし、魂を込めた演奏をしていなかったら、今、私は生きてはいない。
以後の私は、常に命懸けで弾くようになった 』。

 シュヴァルベ先生のこのお話を伺い、僕は体中の毛が逆立ちました。そしてボロボロ涙を流しながら先生に、これから僕も、命懸けでヴァイオリンを弾くと誓ってきました 」。と話してくれたのです。

 私は思わず天を仰ぎました。
はたして私は、今までどんな気持ちで店に立ってきただろうか?
自分自身を、そう審問せずにはいられませんでした。

 

 スイスへの亡命を果たしたシュヴァルベさんの、この脱出行は初耳でした。ただ、似たエピソードは他にも有り、私にとって特に驚く話ではありません。しかし目の前にいるのは僅か23歳の若者で、私の息子程の年齢でしかありません。その若い音楽家が『 命懸けでヴァイオリンを弾く 』と言うのです。
決意が本物だということは、私にもはっきりと伝わってきました。

 私は涙が込み上げるのをこらえながら、「 太田さん!! 今から私を太田さんの弟子にしてください。
今日から私も、命懸けで店に立ちます。誰にでも、寿々屋のオヤジは太田さんの弟子だと言って回ってください 」。そう懇願していました。

 以来私は、太田さんに敬語を使うようになり、有難いことに、今でも師弟関係が続いています。

 

 太田さんは21歳で学生の身ながら、日本史上最年少のコンサートマスターに就任した逸材です( 日本センチュリー交響楽団 )。
現在は指揮者に転向し、名指揮者クリスティアン・ティーレマンにも認められ、ミュンヘンに在住してドイツと日本で飛び回っています。

 また太田さんは、天才ヴァイオリニスト、マキシム・ヴェンゲーロフの日本公演で指揮者を務め、
TV朝日の『 題名のない音楽会 』でも度々指揮をしています。
指揮者としても命懸けなのは、弟子の私にとって誇らしい限りです。
 私は、我が師匠が更なる進化を遂げ、『 偉大な指揮者 』になる日を夢見ているのです。
 

 私は有難いことに、国内外の素晴らしい方々から感化・教化を受け、徐々に成長をしてきました。
しかし太田さんの弟子となったあの日以来、幾何級数的に人生との向き合い方が深化してゆきました。『 人は何歳からでも変わることができる 』。その様な確信を、太田さんが得させてくれたのです。

 

 人との出会いとは、何と有難いものでしょうか。
 私はこれからもまた、素晴らしい出会いに恵まれるよう願いつつ、シュヴァルベさんに倣い、
『 今日が人生最後の日だと思って 』生きてゆきます。

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