第 20 回 ある店内事故の顛末と、そこから見えること
2020.01.31
世の中に完璧な人間など存在しませんから、誰の上にも、間違いや事故は起きるものです。
今回お伝えするのは、私が経営していた店で実際にあった出来事です。幸いにもお客さんへのご迷惑を最小限に留めることができ、また対処に最善を尽くそうとしたお陰で、予期せぬ幸運も生まれました。
事故など決して有ってはならないことですが、その一部始終と顛末から見えたことを、ご参考にしていただければ有難く思います。
飲食店で心しなければならないことは、枚挙にいとまがありません。しかしながら敢えてたった一つだけに絞るならば、『 お客さんの口には絶対に不衛生なものを入れてはいけない 』ということに尽きると思います。食中毒はもちろんのこと、最悪の場合には命にも関わるのですから当然です。職業倫理として考えても、食材の選定と衛生管理を、おろそかにすることは赦されません。
私の店では『 お客さんを我が子と思って調理する 』、『 手は常に、舐めても大丈夫な状態に 』、というのが合言葉でした。
そして次に注意すべきことは、お客さんとの接触事故です。ぶつかればお茶などを掛けてしまうこともある訳で、それが水であっても大変なことなのに、温度の高いものなら火傷につながりかねません。
私達はいつも、赤ちゃんに対するのと同じ細心の注意で、配膳をしていました。
従って新人の採用が決まると、それが調理スタッフであっても入店前に、安全な給仕法について繰り返しトレーニングを行います。安全の為の理屈とテクニックは、私がウェイター時代に徹底して受けたトレーニングを、人任せにせず直に教えました。入店後も最初の数日は、先輩の後ろに付いておさらいをするだけです。注意点と動作が完全に頭に入った後、今度は先輩と新人の役割を入れ替えます。
そして少しずつ、最後の仕上げまで進んでゆくのです。段階を踏むことでテクニックだけでなく、大切なお客さんへの心構えまで養います。
ここで本コラムにおいて最も強調したいことを申し上げますと、どこまでやっても不測の事態が起きることを、完全には防ぎ切れないということです。
それではどうすれば良いかという話ですが、それでも、安全を担保する為の研修とトレーニングは必ず行っていただきたいと思います。何故なら時間をかければかけるほど、事故の起きる可能性が限り無くゼロに近づいてゆくからです。そして並行して、不幸にも事故が起きた時の想定対応を、全店で共有していただきたいとも思います。そして万一の場合に備えた保険加入は、もちろんのこと必須です。
さて問題の、私の店で起きたその事故ですが、有ろうことかスタッフが、お客さんの背中に味噌汁を掛けてしまったのです。
私達は一瞬、全員がうろたえました。しかし直ぐにお客さんが火傷をしないようワイシャツを脱いでいただき( 夏だった為、上着も下着もありませんでした )、冷水を絞ったタオルで、何度も背中を冷やしました。そのあと洗い立ての白衣を着ていただきましたが、お客さんはもう熱くないとおっしゃって、食事を続けてくださったのです。
一連の作業は迅速かつ丁重に、スタッフ全員で行いました。幸いなことにお客さんは、私達のお詫びの申し上げ様と表情そして真剣な対応に、怒りを鎮めてくださいました。
そしてお客さんが着ておられたシャツは簡単に水洗いし、一番足の速いスタッフにシャツとお金を持たせ、デパートまで走ってもらいました。私からの指示は、同じサイズ、同じデザイン、更に、お客さんのシャツより上等な品、というものでした。
私達は何事でも自分の身になって感じ、考えるという姿勢を共有していました。従ってお客さんに対する私達の態度や言葉の端々から、本当に申し訳が無いと思う気持ちが伝わっていたのだと思います。このお客さんは時折笑顔もお見せになり、背中を気遣うスタッフにも、大丈夫だと言葉をかけてくださいました。
程なくして、デパートに走ってもらったスタッフも、お客さんの食事が終わる前に帰って来ました。
私達は濡れたお客さんのシャツを畳んで食品用の袋に入れ、クリーニング代と、購入したシャツも直ぐ着られるように用意して、食後のお茶を楽しんでいただきました。
いよいよお帰りの段になりお客さんは会計とおっしゃいましたが、当然のこと、頂戴する訳にはゆきません。改めてのお詫びを申し上げながら、クリーニング代も新しいシャツも受け取ってくださるようお願いをしました。お客さんは初め躊躇なさいましたが、私達の意を酌み、最後は了解してくださいました。そして味噌汁の掛かった背中がもし後に痛みでもしたら、治療費は全て店が負担させていただくので、病院へ行ってくださるようお願いもしました。
最後は私と事故を起こしたスタッフが、外までお見送りしました。お客さんは後ろを振り返り、会釈を返してお帰りになりました。
この事故は大失態でしたが、お客さんの背中が大事に至らず、全員で胸をなでおろしたものです。
またこの教訓を語り継いだお陰で、以後は二度と、同類の事故は起こりませんでした。
このお客さんはたまにしか見えない方で、私達は、どなた様か存じ上げませんでした。しかし後に、近くの予備校の先生だと判りました。先生は事故以来、週に一度は食事に見えるようになったばかりか、他の先生方もお連れ下さるようになりました。お客さんにとっては不快この上ない事故だったにもかかわらず、赦してくださったのだと感じ、本当に有難く思いました。完璧な対処ができた訳は無いのですが、最善を尽くそうとした心根と心からのお詫びの気持ちを、お客さんが汲み取ってくださったのだと思います。先生のご来店は私の店の廃業まで続きましたから、お見えいただく度に、有難い気持ちになりました。
最後に、この一件を通し私の気が付いたことを、皆様にお伝えしたいと思います。
私はオーナーシェフで常に店にいましたから、お金でも何でも、自由に裁量を発揮できました。
しかし本コラムをお読みの方の中には、複数店舗を展開するオーナーさんもおられることと思います。
営業中には不測の事態も、お客さんにお礼をしたくなる場面も、色々なことが起きるものです。その様な時にオーナーさんに代わり、店長や責任者が充分なことをできるよう、裁量と共に不足が無いだけのお金も、託しておかれることをお勧めいたします。
前述の事故の際もし充分なことができなかったとしたら、例えお詫びの気持ちが伝わったとしても、その後の顛末は違ったものになったと思うのです。
オーダーミスがあった時や、お客さんが席を譲ってくださった時などにも、ちょっとした物を差し上げられたらどれほど良いことでしょう。
私の店には有難いことに、50年以上の、あるいは親子四代にわたるご常連もおられました。
その方々からの、店に対する有形無形の有難い貢献は、計り知れないものが有ったと改めて思います。
そしてその様に考えると、折々に必要な出費など、取るに足らない額でしかありません。
私は心を形にすることは、とても大切なことだと考えます。またその為の裁量とお金を任された従業員さんにとって、それがやり甲斐を生む『 精神的報酬 』になることも、信じて疑いません。
長い間のお客さん方のことを考えると、個人的に大変お世話になった方もおられました。
また終生の友人となってくれたお客さんも有りましたから、私が大切に向き合ってきたお客さん方は、どなたも『 掘り尽くせない宝の山 』であったと、今更ながらしみじみ思うのです。