第 3 回 『 願えば叶う 』 忘れ得ぬ人、増井光子さん
2016.08.30
私が増井光子さんに初めてお目にかかったのは2001年、ご教授いただきたいことが有り、突然の手紙を差し上げたことがきっかけでした。
どなたの紹介さえ無いにも拘らず、増井さんは直ぐ「 手紙で詳しい説明はできないので『 よこはま動物園ズーラシア 』の園長室へいらっしゃい 」と返信を下さり、それを機に、有り難いお付き合いが始まりました。
そして最後は2010年、増井さんが亡くなる数時間前の、英国ケンブリッジ大学病院の集中治療室でした。
増井さんは馬術競技場で、落馬事故のため脳に重傷を負い、ヘリコプター搬送され緊急手術を受けたのです。手術は成功しましたが、容体は好転しません。
程なくして私は、医師から増井さんが助かる可能性の無いことを告げられました。
ショックと深い悲しみの中で迎えた翌日、夜の飛行機で帰国予定の私は、意識の無い増井さんに長年頂戴したご厚情へのお礼を申し上げ、病室からお暇する際「 長い間、大変にお疲れ様でした 」と深く一礼しました ( なぜ最後のご挨拶が『 お疲れ様でした 』だったのかは後述いたします )。
頻繁にお会いしていた数年間、多い時は毎週ほぼ一日、そして海外へも三度ご一緒いたしました。
二人での行動時は個人授業を受けるようなもので、私はこの時間をいつも楽しみにしていたものです。
増井光子さんは1985年、日本初の人工授精によるパンダ誕生を成功させたことで名を馳せ、1990年に多摩動物公園初の女性園長に就任なさいました。そして今度は1992年、上野動物園で初めての女性園長就任を果たされ、一躍、世に知られるようになりました。
また、初期の大阪国際女子マラソンにも草分け選手として出場、後の女子マラソン隆盛に貢献されています。
1996年に麻布大学獣医学部客員教授就任。1999年からは、初代横浜動物園長と兵庫県立コウノトリの郷園長を兼務なさり、約30年前に絶滅したコウノトリを、再び日本の空へ放つ偉業を達成されています。
更にそのご多忙な中、時間を捻出してはハードトレーニングを積み上げ、2006年には馬術世界選手権へも日本代表として出場なさいました。
増井さんが努力へ向ける意志の強さ、ご自身へのマネージメントの巧みさは尋常でなく、目を見張るばかりでした。
数年の個人授業は長時間に上り、好奇心旺盛な私は、増井ワールドを心行くまで堪能いたしました。
増井さんは関わった動物を全部個人名( ? )で、面白おかしく話されました。また、お仕事上の秘話や示唆に富むお話も次から次へと湧いてきて、いくら伺っていても飽きることがありません。
そして小学生のファンレターにまで返信なさるなど、増井さんの人間的魅力も、随分と垣間見させていただきました。
あれこれ書いていてはスペースが足りません。そこで増井さんが何かにつけて口になさっていた『 願えば叶う 』という、増井さんの信念の源泉についてだけ、お話しさせていただきます。
増井光子さんを、一言で言い表すならば『 真剣 』です。
私達が目にする増井さんのお写真は、温厚柔和この上ない笑顔で、見る者は魅了されてしまいます。
しかしご自身を、関西言葉で『 特牛( こってうし )・強情牛 』と呼んでいらした字の通り、実は稀代の強情者( 勿論良い意味ではありますが )で、『 真剣 』になって主張をなさる際の表情は、まるで別人のようでした。この、確信が持てたならば『 千万人と言えども我行かん 』となる生き方が、増井さんの輝かしいキャリアと、数々の功績を生み出していったのです。
増井さんは終生、強靭な意思で難関を突破し続けました。
その中でも最難関は、麻布大学獣医学部卒業時の、上野動物園への就職だったそうです。これを聞いて「 人生の最難関が動物園への就職? 」と思うのは現代の感覚です。しかし時は1959年( 昭和34年 )。現在でさえ社会進出や組織内での男女格差が残っていますが、当時は私達の想像を絶するほど、女性のポストどころか職場も職種も限定されていたのです。大変な、男尊女卑もはびこっていました。
増井さんは、生来の動物好きが高じて女性獣医の草分けとなり、世界中の生きた動物に関われる夢の職場として、動物園で働くと決め込んでいました。ところが卒業前の40日間、嬉々として無休で動物園実習をなさったのに、いざ就職希望を出すと、狭き門どころか全くの門前払いだったそうです。
『 こここそが我が職場 』と執拗に食い下がっても、やれ空きがない、やれ東京都職員でなければダメだ、何だかんだとラチが明きません。結局のところは女性であることが、最大理由だったとのこと。
増井さんは、「 向こうの立場になってみれば、女は力仕事ができない。結婚すれば辞めてゆく。長い時間かけて一人前にしてやってもこれではかなわない、と思ったのでしょ 」と笑っておられました。「 でもここで引き下がってはいられないから、絶対に辞めないと誓い、無給でいいから働かせて欲しいと、当時園長だった古賀忠道博士に食い下がったのよ 」と真顔でおっしゃっていました。
『 強情牛 』の面目躍如でした。
そしてとうとう増井さんは、周囲の反対を押し切ってくれた古賀博士の「 だって君達、やらせてみなけりゃダメかどうか判らんじゃないか 」との一言で、一年だけの臨時職員という条件付き乍ら採用されることになります。その後は動物の為に働くのが嬉しくて嬉しくて無我夢中で仕事をし、一年契約のことなどすっかり忘れてしまったそうです。
ところが『 上野動物園には珍獣がいる 』と言われるほどの働きぶりに、心動かされた多くの方達が『 動物園に女性獣医師は必要だ 』との作り話を東京都にねじ込んでくれ、翌年から、晴れて正職員に採用されます。
増井さんは、「 かわいそうだと思ってくれたのでしょ 」と笑っておられましたが、決してそのようなことではありません。増井さんの『 真剣さ 』は、亡くなるまで、人の心を動かし続けました。
増井さんはもう一つ、『 石の上にも30年 』という言葉も、よく口にされていました。
3年ではなく30年というのは比喩で、おっしゃりたかったことは、とことん打ち込みさえすれば、結果は後から必ず付いてくるという話です。
増井さんのフルマラソン完走は、40歳でジョギングを始めたにも拘わらず、実に33回を数えました。後に100km完走するまでになるのですが、それは、三軒茶屋のご自宅から上野動物園まで片道27kmを毎日走って通勤するという、日々積み重ねた努力の賜物だったのです。
また2005年には、日本野生動物医学会認定専門医の第一回認定試験が行われました。
これは大変な難関だったのですが、増井さんは突破して合格を果たします。この時増井さんは68歳でしたから、幾つものお仕事を兼務する中での受験準備は、困難を極めたはずです。
周囲には、「 既にこの世界の重鎮なのだからそこまでしなくても 」という声が有りました。しかし、「 私はこの制度の言い出しっぺの一人だから 」とおっしゃって、果敢に挑戦をなさったのです。
この合格しかり、『 ガラスの天井 』打破しかり、激務を縫っての馬術世界選手権出場に至る道程しかり、あれもしかり、これもしかり、何もかも。
私は、増井さんが『 努力する天才 』だったと、今更ながらに痛感いたします。
世の中に、個々の分野で立派な業績を挙げた女性は沢山おられますが、増井さんの様に、大きな功績を様々な分野に亘って遺した女性を、私は他に知りません。しかしそこに至る増井さんの人生は、どれ一つ取っても周囲との、そして何よりもご自分自身との、正に戦いの日々だったのです。
多くのご苦労を存じ上げていた私が、間も無く生涯を終える増井さんに『 長い間お疲れ様でした 』とお声がけしたのは、無意識の中ではありました。しかしそれは、必然でもあったのです。
『 石の上にも30年。強い意志を持ち続け努力を重ねれば、 願いは必ず叶う 』
増井さんは終生、物事に対して全力で挑戦し、走り続けました。
そして70歳を過ぎてなお、「 私は青春の真っただ中にいる 」と満面の笑みでおっしゃっていました。
今も私の手元には、増井さんから頂戴した私信とメールが残されています。
そのどれを読み返しても、そこには心細やかな思いやりが見て取れるのです。
増井光子さんは動物にも人にも途方もなく優しく、しかし鉄の意志で人生を切り拓いた、実に偉大な人物でした。